「そんな焼き物があったなんて、地元の人も知らなかったんです。父と2人で、手探りしながら少しずつ復興を目指しました」

山口県岩国市美川町小川。野鳥の声だけが静かに響く山あいの集落に、かつて江戸幕府への献上品として作られていた幻の陶器を復活させた窯元があります。「多田焼」の窯元、雲渓(うんけい)山窯。いつも穏やかな佇まいの二代目当主・田村雲渓さんに、多田焼の魅力、陶芸の奥深さなどについて伺いました。

―ものすごくいいところですね、ここは。静かで、緑に囲まれていて。

制作に集中するにはとても恵まれた環境だと思います。かつては鉱山のまちとして8000人ほどが暮らし、映画館もあってとても賑やかだったと聞きました。でも1970年代に落盤事故で閉山となってしまったようです。

―多田焼は、ずっとここで続いてきたんですか?

いいえ。もともとはその名の通り岩国市多田(山陽道岩国IC周辺)で焼かれていました。僕も多田の出身で、陶芸を初めたころは父(故人)と多田で作っていたんです。そこが手狭になったので、40年ほど前にこちらに移ってきました。

「地味だけど、そこに感じられる華やかさ」

―恥ずかしながら私は多田焼について詳しくないのですが、どういう特徴があるのでしょう?

一般的にはそれほど知られていないので、恥ずかしがることはありませんよ。貫入(釉薬の上にできる細かいひびの模様)と、形の端正さ。特徴というと、この2つに尽きるんですね。あと、この色の風あい。とても地味なんだけど、その中に華やかさが感じられるんですね。そこが魅力なんです。

僕自身は彫刻や透かし彫りなどを施した作品も好きですが、本当にいい作品はそういったものを必要としません。精神性の高い作品に細工は要りませんから。

―それにしても、なんとも言えない緑色ですね……。よくみるとちょっと青みがかって見えるところもあったり。

そういう色を出してくれと言われたりするんだけど、思い通りの色が出せることなんてほとんどないんです。釉薬の調合と火加減で変わるんですが、特に火加減が難しい。この辺りで伐採された松の薪を使って焼くのですが、40年以上やってきて、最近ようやく「いい」と思える色がときどき出せるようになりました。でもこのままならなさが、また面白いところでもあるんですけど。毎回結果が違うから、次こそはもっといいものを……という気持ちになるんですね。

【雲渓山窯の登り窯】

船乗りから転身。海から陶芸の道へ

―田村さんは二代目ということですが、幼いころから陶芸の手ほどきを受けてこられたんですか?

いえいえ、まったくそんなことはありません。父はもともと陶芸家ではなかったので。新聞記者とか室内装飾とか、いろんな仕事をしていました。父が陶芸を始めたのは、僕が広島の商船高専に通っていたころの話です。

僕は陶芸家になるなんて思ってもいませんでした。元来、不器用なので工作はめちゃめちゃ苦手だったんです(笑)。なので、商船卒業後は航海士となって船に乗っていました。仙台の塩釜港とアメリカを往復する北米航路でした。

―航海士? 海の上から、どのようにして陶芸の道へ?

船に乗り始めて1年がたったころ、急に母が亡くなったんです。まだ42歳でした。家族のショックは相当なもので、特に父の落胆はひどかった……。その姿を見て、このまま放っておけないなと。陸に揚がって実家に戻り、仕事を手伝うことに決めたんです。

何も知らない全くの素人ですから、職人さんに手ほどきを受けながら毎日少しずつ学んでいきました。上達していくのが楽しくて、3年間、一日も休まず作陶を続けましたね。でも、当然商品にはなりませんから遊んでいるようなものです。だけど、有難いことに父はそれを許してくれたんです。いまの自分があるのは、あのとき父が長い目で見てくれたからだと思います。

―そのときには、もう多田焼を復興されていたんですか?

いえいえ。当初はまだ父でさえ多田焼の存在を知らなかったんです。僕が手伝い始めてすぐのころ、知り合いの人が「図書館で多田焼というものについて書かれた本が虫干しされていた」と教えてくれたんです。行ってみると、それは江戸時代に多田焼というものがあったこと、岩国藩が将軍家への献上品として作っていたことなどが、土や釉薬の説明とともに記されていました。多田に住んでいることもあって、これはぜひ復興させてみようと。

でも、近所のお年寄りに尋ねても「昔、このあたりに窯があったというのを聞いたことがある」という程度。ほとんど誰も知らなかったのです。

【多田焼の記録が記された資料の写し】

―そこを、お父さんと調べながら少しずつ……

そうですね。先ほどの資料をもとに土を調べたり、地元に残っている数少ない作品を見たり、いろんな方に教えを請いながらの手探りの日々が続きました。

―作品はほとんど残っていなかった?

献上品ですから、将軍家に送る目的で作られていたんです。なので、地元には傷もののような献上できないものがわずかに残っている程度でした。それらを参考に、二人で研究を重ねていきました。

そのころ、僕にとって大きな機会が訪れたんです。

僕は工作は苦手でも、絵を描くのは好きだったんですね。だから作品にも、彫刻のように絵を付けたい、それを一から学びたいと考えていました。そんなときに、父のつてで韓国の李朝白磁の作家である安東五さんのところへ学びに行かせてもらったんです。日本でいう人間国宝のような方なので、そこで1年間みっちり学ぶつもりでした。でも実際には1ヶ月で呼び戻されましたけど。

―それはどうしてですか?

やはり、父一人では仕事の手が足りなかったんですね。でも、その1ヶ月間、ずっと制作現場にいたので、彫刻に関することについてはしっかりスケッチすることができたんです。おかげで帰ってきて非常に役に立ちましたね。

それから一年ほどたったころ、安先生がここに尋ねてこられました。そのときに僕の作ったものなどを見ながら「全部盗まれた」と笑っておられたんです。それを聞いたときは本当に嬉しかったですね。そのときに釉薬についても丁寧に教えていただきました。いまでもその教えがすごく役に立っています。

厳しい時代。「それでも、使ってもらえる作品を、作り続けていく」

―多田焼を復興されるなかで、作陶以外で大変だったことはなんでしょう?

それはやはり、知名度のなさですね。江戸時代のものなので、茶碗や水指などの茶道具がメインなのですが、お茶の世界で無名の多田焼を使ってくれるところがなくて。でも、そうした状況にある意味、反骨精神をかき立てられて懸命に作り続けました。そうしているうちに、お茶の世界で有名な方と知り合うことができて、その方のお陰で全国を回ってお茶の先生相手の展示会などを開くようになり、だんだんと使ってもらえるようになったんです。

―そのように復興された多田焼を、今後どう発展させていきたいとお考えでしょう?

今後……。そうですね、今はお茶道具がどんどん流出している時代。かつてはとても手の出せなかった名品が海外の人に買いたたかれています。需要がなくなり、名人と呼ばれていた人も次々と亡くなっている現状が、そういう事態を招いているのです。

でも、そんな中にあっても、これまで通り鑑賞用ではなく、使ってもらえる茶道具などを作り続けていきたいですね。実際にお茶会などで愛用してもらっているところを見ると、我が子の発表会を見ているようで本当に嬉しいですから。

多田焼
元禄十三年(1700年)、京都から陶工を招いて知識・技術の伝承を行い、岩国藩の藩窯として開窯。主に茶碗、花生等を作り、将軍家へ献上していた。約100年続いたのち、高齢化と後継者不足などを理由に途絶えた。昭和50年代、初代田村雲渓氏により復興。

取材時期:2019年6月
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