「ここを真っ直ぐ立てて、もう1回やってみて……。ほら、できた!」。小さな子どもたちと一緒になってけん玉で遊び、ハイタッチをして喜ぶ男性の名は、新井謙太朗さん。昨年5月、周防大島町の地域おこし協力隊として着任し、アウトドアやスポーツの観点から観光振興に取り組んでいる。周防大島に来るまではベルリンに7年、その前は台湾、カナダの大学で政治哲学や教育学を学んでいた。ベルリン時代には「ヨーロッパけん玉大使」として世界大会も主催。そんな新井さんが、過疎化の進む瀬戸内の島に移り住んだ理由とは……。
―いま、けん玉をしていたお子さんとはお知り合いですか?
いえ。初めて会いました。けん玉を持っていると、こんなふうにすぐに打ち解けるんです。これは国籍、性別、年代に関係なく、まったく同じ。世界共通、最強のコミュニケーションツールですよ。
―世界共通、ですか?
ええ。首からけん玉をぶら下げて海外を旅していると、まず「なんだそれ?」と尋ねられます。そこで実際にやって見せて、相手にもやってもらうんです。コツをつかんで大皿に乗せることができたら、間違いなくどんな人でも大喜び。そしてハイタッチですね。その時点でもうけん玉仲間ですから。
―周防大島に来る前は、ベルリンで暮らしていたと聞いていますが、そこでもけん玉を?
ええ。けん玉のチャンピオンシップ大会を開いたり、学校にけん玉クラブを作ったり。日本食レストランで働きながら、現地の友だちと普及に努めていましたね。周防大島でもどんどん広めていきたいと思っています。

腰にいつもけん玉をぶら下げている新井さん。「電源も要らず、場所も取らず、どこでもすぐにできるのが魅力」
この島の「危機感と熱意」が移住の理由
―そもそも富山出身、カナダ、台湾、ベルリンで暮らしてきた新井さんが、移住先として周防大島を選んだ理由はなんだったのでしょう?
危機感と熱意です。
―危機感と、熱意?
ええ。年間約500人ずつ人口が減っているという現実。なんとかしなければという危機感を、他の自治体より強く感じました。そのことが、移住担当窓口の方の熱意として表れていたんだと思います。実は、初めから周防大島に住もうと思っていたわけではなく、移住先として瀬戸内海の島などをいろいろと巡っていたんですね。そのなかで、「ここで暮らして欲しい」という熱意を周防大島から最も強く感じたのです。
―逆に言うと、そうでもないところもあったと?
そうですね。残念ながら、役場の移住担当の窓口に行っていろいろ質問しても「それならあそこで聞いて」などと回されるだけで、担当者が何も情報を持っていないような町もありました。それに比べて周防大島はワンストップで、本当に丁寧に対応してもらったので。
当初、周防大島は1日だけの予定で訪れました。でも、町定住促進協議会の泉谷勝敏さんから「移住希望者のお試し用の宿泊施設があるから、数日過ごしてみませんか」と。そこに3日ほど滞在するうちに、移住者の先輩方や、自然農をされている方たちをどんどん紹介していただいたのです。同じ子育て世代の方たちから直に話を聴けたのは大きかったですね。
―それが決定打になったわけですね。
そうですね。特に、ある移住の先輩の言葉が印象的でした。「ここで一緒に10年後、15年後も面白いことをやろうよ。そういうメンバーがそろっているよ」と。それを聞いて、長い目でこの島での暮らしを見据え、可能性を見出しているんだと感じて、ここにしようと。昨年5月、地域おこし協力隊として妻の幸、長男の球喜と3人で移り住みました。

妻の幸さんと、球喜くん
「何もない」に秘められた可能性
―島の生活者となって感じる新たな魅力はありますか?
そうですね……。それは「何もない」ということでしょうか。
―何もない?
ええ。都会と違って様々なものが揃っているわけではなく、むしろ何もない。でも、見方を変えるならそれは手つかずの資源の宝庫とも言えるのです。つまり、都会にあるものは何もないけれど、眠れる可能性は無数にあるわけです。「遊びにいく」というと地元の方は島の外に出られる場合が多いけれど、実は工夫次第で楽しめる場所がたくさんあるんです。
―例えば?
ことし5月に、屋代地区にある屋代ダム公園で「PLAY FES.」という遊びをテーマにしたイベントを開催しました。あの公園の環境は最高なんですが、ほとんど使われていないんです。熱気球の搭乗体験や、プロのスケートボーダーによる指導、トレイルランなどを企画したところ、約1000人の参加者で盛り上がりました。
地元の屋代の方々に喜んでいただけたのも嬉しかったですね。「むかしはこの公園で花火大会をしたり、鯉のぼりをたくさん揚げたりしていたけど、ここ最近は忘れられた場所になっていた。そこにまた人を呼んでくれて有難う」と。

PLAY FES.の目玉のひとつとなった熱気球(新井さん提供)
「我慢ではなく、良くなるために声を上げたい」
―昨年10月には、大島大橋への貨物船衝突事故による長期間の断水がありました。大変ではなかったですか?
いや、あれはキツかったですね。どれだけ自分の生活が脆弱なのか痛感しました。その中で、お年寄りたちが我慢している姿がとても印象に残っています。何日もお風呂に入ってないのに、みんな文句を言わずに耐えていらっしゃいました。どうしてなんだろうと……。
―どうして、とは?
例えば、お風呂に一緒に行きませんかと声をかけても「いや、うちはいいから」と。携帯トイレを入手したので、それを配りにいくと「うちよりも、他に回して」と言われる。結局、誰の手にも渡らないんですよね。みんなが我慢しているから、自分も我慢する……。我慢ではなく、声を上げて少しでも良くしていきたいと考える僕には、少し悲しくなることも多かったのです。「我慢は美徳」とは限らないと考えているので。
―そういう傾向、周防大島に限らずありますね。
とても日本人的ですよね。僕は中学1年のときにあることを経験して、ほとんど授業を受けなくなりました。休み時間に体育館で遊びたいという友だちが多かったので、先生に体育館を使わせてほしいと伝えると「みんな我慢しているんだから、おまえも我慢しろ」と。「みんなが我慢しているからこそ、使えるようにするべきじゃないですか?」と言うと、さらに怒られて。こんな理不尽なことが罷り通るのはなぜなのかと……。人間ってなんだろう、生きるってなんだろうと悩み始め、図書室に入り浸ってカントなど哲学者の本などを読みふけるようになったんです。
―そうした原体験が、海外の大学への進学や政治哲学、教育学への関心に繋がっていったのでしょうか?
振り返ってみると、そうかもしれないですね。
違いを認め合って「多様な生き方ができる島」に
―留学を始め、海外での様々な経験が現在の仕事に生きていると感じることはありますか?
強いて言うなら、物事を俯瞰する力でしょうか。北米では露骨な人種差別も受けました。けれど、ダイバーシティー(多様性)が当り前の社会のなかで、南米やアジアの人たち、そしてLGBT(性的マイノリティー)の人とも接するうちに、国や民族、宗教が違っても、同じ人間なんだということを学んでいきました。
周防大島には、合併前の旧4町時代の対抗心やしがらみがまだ残っているように感じます。けれど、僕から見ればひとつの島にすぎません。大切なのは互いの違いを受け入れ、認め合うこと。意見が違ってもいい。その違いをただ認め合えるなら、ぶつかることなく前へ進んでいけるのです。

けん玉をぶら下げたまま、観光協会で働く新井さん
―では最後に、新井さんはこれからこの島で、どういう生き方をしていきますか?今後の展望をお聞かせください。
任期後は自給のための農業と併せて、イベントや映画関連企画など、複数の仕事をしながらずっとこの島で暮らしていくつもりです。いま僕は、周防大島観光協会で週4日働いたら、ほかの日はけん玉の体験会を開いたり、家族との時間に充てたりしています。このワークライフバランスはベルリン時代から変わりませんし、これからも続けていきます。時間的な豊かさを大切にしているんですね。なぜなら、お金は取り返せても、時間は取り返せないですから。
そしてこの島を、僕のような一般とは異なる価値観を持っている人でも暮らしやすい場所にしていけたらと思っています。そうしていくことで、多様性を求める人たちがどんどん移り住んでくるはずですから。地元の人も移住者も分け隔てなく、互いの違いを尊重しながら、10年後、15年後もこの島で面白く生きていきたいと思っています。
*****
新井謙太朗さん
住所/周防大島町志佐
MAIL/kentaro.koa0525@gmail.com
インスタグラムのアカウントはこちら
※けん玉体験会の依頼などは、上記まで。
echo $txt; ?>
} ?>